日本において初めて彫りゴム印を発明し、製法技術を全国に広めた芭蕉堂創始者、牧為助の人生。

芭蕉堂初代彫りゴム印創始者牧為助について

芭蕉堂創始者である牧為助は明治半ば、日本において初めて彫りゴム印を発明し、その製法技術を全国に広めた。その事実は当時の広告案内の存在で立証され、その広告には「高低調用自在ゴム材印版」(写真参照)と題され、「槇為氏印」「領収之印」「消印」「緘」などの見本の印影が掲載されている。このことは全日本印章業組合連合会が発行している労働省(当時)監修の「印章彫刻技能士必携」(印章技術に関する教科書)に記載され、詳細は東京印章協同組合記念誌「東印六十年の歩み」にも掲載されている。

高低調用自在ゴム材印版 御印刻証明書

牧為助の父方は木造(きずくり)家で村上天皇第七皇子の流れを汲む北畠家と関係ある家系で愛知の豪族となり後に信長に亡ぼされている、父の木造正義(きずくりまさよし)は名古屋上前津町あたりに住んでおり、二男一女の子がおり、長男木造源之丞は西南戦争、日清、日露戦争で従軍し、優秀な軍人だったらしく金鵄勲章を受け退職後に年金生活となっても豊かに生活していたようである。為助はその次男として、安政元年(1854年)に生まれた。当時長男にしか相続権がなかったため、幼時に牧家を継ぎ、十六歳の時、名古屋鉄砲町の印刻師角屋庄蔵(通称つのしょう)の弟子となり、印刻を修業した。その印刻の技術を習得するかたわら、明治20年頃から舶来の鋳造ゴム印(現在多く使われているゴム印の原型で簡単に説明すれば活字を石膏などの柔らかい素材に押し込むことで凹版を作りそこにゴムを流し込む)が出回り、製造方法がわからないまま、削ることで作製出来ると考え、何とかこのゴム印が彫れないものかと日々苦心していた。ゴム素材自体もまだ一般的には使われてない時代、その材料となる平で薄いゴム素材を見つけるのは困難を極めた、色々試していたようだが、東京築地小田原町にあった船具の古物商で汽船解体から出たボルトのパッキングに使われていた古ゴムを利用して試みた。だが表面にボルト跡形が残っていたり、鉄さびが付着していたり凹凸が多く、厚さもまちまちで、それを包丁状の刃物で削いで平にして磨いて使用したため大変手間がかかった。そのうち潜水具の首部分の前側に使用するゴムが比較的大きく平らであったため使用しやすく落ち着いたようである、その色が薄い朱色であったため、現在もその色のゴム印が多い。

 その製造方法が確立し本来の放浪性も加わり、妻子を半田に残したまま、全国を行脚してはその地に留まり、技術を伝え彫りゴム印の普及に貢献することとなった。

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彫りゴム印の製造方法

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