芭蕉堂店主ブログ 雖小居日録

「中野駅周辺のこと(1)」はじめに

2019年 5月 31日 金曜日
BLOGカテゴリー: 歴史

 JR中野駅北口の再開発は大学3校の誘致を中心として行われ、上場企業の本社もすっかり地元に溶け込み、「中野四季の都市(まち)」として機能し始めた。以降は南口の再開発が二丁目、三丁目を中心として計画され、駅西側の南北通路の敷設も織り込まれており、今後どのような街になってゆくのか注目するところである。南口「レンガ坂」当店の地に生まれて六十数年、中野駅周辺の多くの商店の隆盛と衰退を眼前に見ながら生活して来た、あまりにも変わってきた「この町」のことを、多くの商店
の想い出を中心に書き留めておくこととする。・・・・・と、
 このように書き始めてから何年経っただろうか、その後中野駅周辺の計画は中野区長の交替或いは行政、国、JRの動向により変遷し続けており、我々一般住人には最終的な街の様子は浮かんで来ないし、その時期も一向に見えて来ない、この中野駅周辺の歴史を知ることが、この地域の発展の一助になればと当店周辺の極く狭小な一角の変遷を辿ってみようと思う。2019年4月の日付で(仮称)中野駅西口開発建築計画のお知らせと称し、東日本旅客鉄道株式会社名で地上5階の駅ビル建設の概要案内が配布されたが、着工2020年3月完了2028年3月とあり、再開発は遅々として進みそうにはない。
 中野駅周辺の歴史をどこまで遡れるか難しいし、詳しい調査が必要になる、簡単に記せば、遠い昔は武蔵野台地の丘陵地帯であり、周辺は武蔵の国として江戸時代は農家が点在する長閑な田園ではなかったか、雑木林が続く中に農家も散在していたかもしれないが、人も農地も少ない自然のままの一帯であったであろう。そのような地域が歴史的に明らかになってゆくのは、五代将軍徳川綱吉が「生類憐みの令」によって殺生を禁じたため、幕府の野犬保護施設を設けてからである、犬を囲って飼育していたことから「お囲い御用屋敷」とも言われ、旧地名「囲町」はこれに由来する。綱吉死去後その「令」はすぐに廃止となり以降、その動物達の運命や施設の変遷は不明である。当時、青梅街道沿いには300年の歴史を誇る古くからの商業地が開け、妙法寺も古くから参拝者も多くその参道も周囲に多く広がっている、桃園通りは中野駅開設以前のその参道のひとつで、くねくねとした道を辿ると妙法寺に行きつく、新井薬師にも参拝客は多かったであろう、落合火葬場も近く、当時の人たちが訪れる所はそのような場所であり、行楽や旅の対象は多くは信仰関連施設であった。
 中野駅開設から始めよう、明治22年4月今の中央線は甲武鉄道として発足した、本年(平成31年2019年)JR中野駅は創業130周年を迎えイベントの予定もあるようだ。東海道線が神戸まで開通したのがその2カ月前であり、鉄道敷設としては早くそれも私鉄として建設され、後に国に払い下げられた、内藤新宿を起点として馬車鉄道も運営されたが、輸送量に限界があり、甲州街道沿いに西の八王子へと計画したが、沿道住民の猛反対に会い、その理由が、既存の輸送手段業者の利用減少への危機感や宿屋の経済的理由、煤煙による作物被害、沿線火事の不安などだったそうだ、仕方なく新宿から東中野付近までは北側を抜け、後は定規で一直線に立川まで線を引いた、殆どが田畑や雑木林で用地買収も簡単で、建設はスムーズに進んだ。最初作られた駅は内藤新宿、中野、境、国分寺、立川の5駅、機関車に引かれた車両は5,6両内藤新宿を出発し、中野までは11分、境まで23分立川へは1時間、午前午後それぞれ2往復のダイヤであった、利用は殆ど観光客、妙法寺や薬師の参拝客は多くなったという、当時の広告コピーが残っている「日蓮宗の古刹、堀の内妙法寺、新井薬師梅照院に、東京中央居住の人にて参詣するものは、当駅にて下らばもっと便なるべし」料金は新宿・立川間、上等66銭中等45銭下等22銭、新宿・中野下等3銭だった、当時下宿屋の相場が月3円50銭の時代であった。その後駅も次々に追加建設され、鉄道のもたらす経済発展は周囲を驚かした、甲州街道沿いの既存業者は大正初期京王線を敷設し挽回を計るが遅きに逸し現在に至っている。
(「東京沿線物語」金子治司より「商店街からたどる“なかの”の足跡」)                    

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旅行「松山劇場」

2012年 1月 18日 水曜日
BLOGカテゴリー: 旅行

旅行「松山劇場」

野球の話ではない。四国松山「坊ちゃんスタジアム」でプロ野球公式戦でどんなデッドヒートの熱戦が繰り広げられようとも、翌日のスポーツ新聞に「松山劇場の熱戦」と見出しの付くことはない。何故ならば松山に「松山劇場」は既に存在しているからである。

 昨年末四国松山を訪れる機会があった、大街道からブラブラ歩くと珍しく役者名の入った登り旗が翻り、その6階に劇場があることがわかった。詳しいことは何もわからず、エレベーターで上へ、本日「芝居の日」均一千円との貼り紙、昼の12時開演ですでに2時間経っていたが残り1時間あり途中入場も可能とのことで入った。200人程椅子席が並び、7割位埋まった客の中に座る。大衆演劇常設劇場であった、本日は「劇団蝶々」座長、中野弘次郎の公演である。埋まっている席の九割は女性、そのまた九割は七十歳以上と見られ、その熱気が伝わってくる、音が流れ始める、司会の名調子で座長 中野弘二郎が紹介される。本日特集の「美空ひばり」の唄が流れ始め、女装姿の「おかめ」二人と男装姿の「ひょっとこ」三人の踊りが始まる。そして以降「ひばり」の曲に合わせて座員十数名が入れ替わり、粋な男衆や妖艶な女形の和装で登場する、会場はざわざわすることなく舞台に見入っており、時には後方の席から走り寄り、踊っている男優の着物の襟に札を捻じりこむ、夢見心地なのだろう、上気した顔が可愛い。選曲も素晴らしい、「人生一路」「おまえにほれた」「なつかしい場面」「みれん酒」と踊りに似合う渋い曲から有名曲「愛燦々」「川の流れのように」「乱れ髪」など次々と替わり、座員も曲により交代してゆく、「柔」「悲しい酒」と往年のヒット曲となり、そこでハッとしてタイムスリップに陥る、何十年前になるか場末の劇場での「ストリップショー」が浮かび上がる、にきび面で目を輝かせながら舞台に見入っていた頃のことを。しかし正に逆転しているのである、当時舞台は「おばさん」が和服一枚一枚脱いでゆきそれを若い男たちが見入る、ここでは若い男たちが舞台で見えを切り、それを「おばさん」が見入るのである。そこに同じ「ひばり」の曲が流れている。「日本」を感じる一瞬であった。1時間ほどでフィナーレとなり客席に何か投げ込まれ競って拾うと、座長のポートレートのついたポケットテッシュだった。前半2時間の内容は「舞台劇」だったのか不明だが、3時間十分楽しませ、千円とは芸能の原点を見る思いがした。1階の出口では座長をはじめ座員が御礼に並び、またの御入場をお願いしている。

 検索サイトで「大衆演劇」を見ると全国に何か所も専用劇場が紹介されている、ホテルなどのイベントとしても開催しているようである、大阪通天閣界隈の「朝日劇場」「オーエス劇場」は以前観劇したことがあり、同じような構成で地元婦人たちを楽しませており、劇団の方はそれらの劇場に月単位で移動して公演しているようである、旅の一つの楽しみとして加えるのも一興である。

 もうひとつ付け加えたい、その同じビル2階にある映画館「シネマルナテック」のことで、昨近ショッピイングモールに併設されたシネマコンプレックス全盛の時、「名画座」として孤軍奮闘している。160席ほどの小さい館内だが、まず最初に驚くのは、座席全てに手作りの座布団が置いてある、模様がそれぞれ違っているのでそれとわかり、見るからに温かみのある光景が飛び込んでくる、館長一人で経営しているのか、ポスターや販売している書籍などに個性があるし、上映ラインナップにも表れている、タイムスケジュールも少々複雑で、当日(昨年12月23日)では午前11時「海洋天堂」1時「未来を生きる君たちへ」3時「お家をさがそう」5時はまた「海洋天堂」となっている、従って1日で3本見ることも可能で、その際「はしご割引」料金も設定されており2本目以降は千円で鑑賞できる。当然回数券も用意されている、映画好きにとっては堪らない映画館で近くにあれば日参したくなる程だが、残念なことに私が見た回は5名の観客であった。是非この火を消すことなく頑張って続けていただきたい。4階の映画館「湊町シネマローズ」は現在休館中である。

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映画「警察日記」

2011年 12月 2日 金曜日
BLOGカテゴリー: 映画

映画「警察日記」1955 日活111分
監督 久松静児
出演 森繁久弥 三國連太郎 三島雅夫 十朱久雄 織田正雄 殿山泰司 宍戸 錠 伊藤雄之助 東野英治郎 左 卜全 多々良純 三木のり平   稲葉義男 高品 格 二木てるみ 小田切みき 岩崎加根子 坪内美子  飯田蝶子 沢村貞子 千石規子

想像してしまう、この映画が公開されていた頃の映画館の様子を。昭和30年、映画が娯楽として最高潮に達していたころ、テレビ時代はすぐそこまでやって来ているが、街に何軒もある映画館はどこも超満員、1週間で入れ替わる作品を見逃すまいと沢山の観客が押し寄せる。立ち見で押し合い圧し合い立錐の余地も無い、入りきれない観客は閉まらないドア越しに一部しか見えない画面と聞こえる音声に集中して何とか楽しんでいる。皆が画面に集中し、館内が一体となり、緊張し、興奮し、爆笑し、ホットしたり、涙ぐんだり、怒ったり、地面は揺れ、建物が傾ぐようだ、そして「終」或いは「完」のエンドマーク後、明るくなった館内は上気した顔で溢れ、次回上映の席取りで騒然となる、この「警察日記」もそのような中で上映され、家族皆で楽しめる映画としてヒットした筈だ。私も親に連れられ見ているかもしれない。この出演者の豪華な顔ぶれが凄い、戦後映画界を支えた男優女優達で、映画の内容から飛びきりの美人女優は登場しないが、宍戸 錠はこの作品がデビュー作で美男子ぶりは後の「ジョー」からは想像出来ない、そして何といっても、この映画のヒロインは5歳の二木てるみである「赤ひげ」での新人女優としての名演技の印象が強かったが、それは此の頃から既に培われていたものとわかる、顔付も殆ど変わらず5歳の面影を後々まで残している、その可愛らしさは多くの特に母親たちに印象を強くしたに違いない。

映画は東北福島のある町の警察署を舞台にした、戦後10年たった住民たちの生活ぶりである、敗戦の痛手から立ち直り、女性の地位向上、社会進出も進み、経済的にも復興し始めて来ているが、その潮流に乗り遅れた不幸な弱者たちも多い、そんな人々の混乱した生き様が警察署を舞台に繰り広げられる。二木てるみは赤子の弟ともに捨て子として保護されるし、岩崎加根子は「くちきき」屋に騙されて紡績工場へ行く前に保護される(実際は彼女もグルで「おとり」のようなのだが)そして軽犯罪の殆どが極貧からの食べることにも事欠く状態を要因とした窃盗であったり、無銭飲食だったり、詐欺だったりで時代背景を反映している、そこに好演している幼い子供が絡んでくれば「お涙頂戴」の悲劇にもなり、しんみりした人情話となる。また一方で強者の中心は商家の次男坊が県議会議員となり地元に凱旋し、芸者をあげての歓迎会となる、警察署も含めた行政の対応ぶりも街をあげての接待となり、ついこの間まで続いていた慣習は此の頃根付いたようだ。経済的に豊かになっていることも、そして観客に豪華さを示すことで元気になってもらいたい主旨も織り込まれている。戦前の「特高」的イメージの警察機構の払拭も重要なテーマであろう、親切この上ない署長を中心とした幹部巡査の人情味あふれた対応とそれを見る若い巡査の眼差しが将来の希望にも繋がり、素晴らしい時代の到来を示しており、最後には駄目押しのように、新設なった自衛隊入隊のシーンを加え、一気に高度成長へ進むことになる。十年間が戦後の節目となったのか、当時の様々な現象を網羅しており、社会派映画台頭の反面での娯楽家族映画の集大成の作品となっている。昭和30年「キネマ旬報」日本映画ベスト・テンでは「浮雲」「夫婦善哉」「野菊の如き君なりき」がベスト3で「警察日記」は第5位だった。

 

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食べること「スローフード」(3)

2011年 10月 3日 月曜日
BLOGカテゴリー: 食べること

食べること「スローフード」(3)

魚介類の登場である、貝は比較的食べ易い、二枚貝は生であれば開けるのに苦労するが、牡蠣を食卓で各自開けながら食べる情景は想像できない、事前に開いた状態で供せられる、殆どが熱を加えることで開き簡単に食することが出来る、巻貝は茹でたり、煮たりして食べるが楊枝を刺してくるっと回せばうまく取れる、慣れれば先の肝部分まで簡単に取れるようになる。ここで箸のことについて、起源は中国のどこかと思うが(殷の紂王は象牙の箸を使っていたとか?)現在使用している民族は中国、韓国、日本位であろうか、タイではソバとともに箸が入ってきたらしい、想像するに、魚食文化と箸の使用術の巧み化は関連しているのではないか、中国、韓国の箸はものを挟むというよりかき寄せることが多い、従って先はとんがっていない方が使いやすい、逆に細かいものを掴むには向いていず、日本人は旅行時に使いづらさを経験する。日本は動物性蛋白質を主に魚から摂ってきた、貴重な魚は完食が必要であり、それは煮たり、焼いたりすることで実現し、食べる側として高度な箸捌きが必要となった、箸と魚料理の相互のせめぎ合いが今日の魚食文化を生み出し、世界に誇る箸文化も完成した。そして昨今の洋食器の普及で家庭にて箸の使い方を徹底して教えることが出来なくなり、従って魚を上手に食べられなくなり、双方が衰退してゆく過程にあるのではないか。刺身や鮨は日本の専売特許ではなくなり世界中で食されている、切り身となった魚やそれを乗せた鮨を箸を使って危なっかしく摘む映像はよく見受けられる、日本でも刺身や切り身の煮魚、焼き魚は骨を除去した状態で多くの学校給食、老人ホーム、社員食堂、定食屋で食べられている、基本的に日本人は魚が好きである、ただ骨が付いていると食指が滞る、魚売り場でも刺身に比べてその余った部分の「アラ」は極端に安い値段で売られている。そこでこの骨付き魚を上手に食べることの勧めである。まず箸を上手に使いこなさなければ、フォークでは難しい、先ず焼き魚、大きな魚は骨に煩わされることなく簡単に食べられるが、骨近くの身が一番美味しく、丁寧に骨を退けながら身を取り出す、その時間の経過が食べたい意欲を体にもたらし、唾液も活発となり早食いの抑制となり体にとって都合がよい、口の中の骨を選り分ける作業がまた脳の活性化と注意力がボケ防止となってアンチエージングにも繋がってゆく、煮魚はもっと顕著であり、頭、鎌、尾と煮れば全てを骨と格闘しながら食することになる。良く言われる動く部分が一番美味い、昔の人はあらかた食べた後お湯をかけズズーっと飲み、骨だけの姿に猫は仕方なくそっぽを向いたとか。この食し方も60歳からでは間に合わない、若い時のスキルの習得の一つに加えたい。面倒この上ないグルメの最高品があるが、またに譲りたいそれは蟹である、特に毛蟹である。

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食べること「スローフード」(2)

2011年 8月 26日 金曜日
BLOGカテゴリー: 食べること

先代より言われてきた、「よく噛んで食べなさい」「お米は八十八と書くでしょ、88回噛んでから飲み込みなさい」確かに胃に負担がかからず、よく噛んで唾液を混ぜて食べるに越したことはない、だが現実にはそう沢山噛んではいられない。それでは食べることが難しい食品であればどうだろう、多くの人達はそれらを、食べにくいと敬遠し、「食べてやろう」との努力もせず、そんな食品に関わる程ゆっくりした時間はないと、安易な食品に向かってしまう。とても食べにくい食品の勧めである、食するにはそのものが好きでなければいけないし、日頃食べるために訓練しなければ、いきなり美味しく上手には食べることは出来ない、還暦過ぎて食べたいと思ってももう遅い、とても面倒で、食べることが可能な部分を多く残すことになってしまう。それは殻付きであり、骨付きであり、食用可能部分以外の捨てる部分の多い食品の勧めである。野菜系の殻付きは比較的やさしい、枝豆は皆、殻付きを食べるでしょう、蚕豆、落花生、中国産ではカボチャ、西瓜などの種、それぞれ中身だけのものも販売されているが、殻付きの方が美味いし、食べるときの不便さが唾液の増加を招き、手で剥く手間が指の先の活性化に繋がる、中国人の種を口の中でより分ける技術は真似出来ないが、舌、歯、顎の運動には十分寄与しており健康にとっても大事な作業である。肉はどうだろう、大きな動物は肉部分が多く、鯨や牛や豚は比較的食べ易い、スペアーリブの骨にしっかり付いた部分や、テールシチュウが少し面倒になってくる、ここでお勧めは「豚足」である、和食には登場しないが、中華、韓国、西洋料理にはよく出てくる、アイスバインは少し太股に近くなるし骨も少ないが高級料理である、豚足は中に細かい軟骨や骨があり、丁寧に全て除去してある高級料理は別として、手間のかかる作業を経て口の中に入る、焼いたり蒸しただけの韓国系であればより難しい作業となる。フォークや箸では食べられず手掴みで食べることになる。次は鶏肉、ナゲット主流となってしまい、鶏はこの食べ方しか知らないとか、唐揚げでも骨付きだとびっくりしてしまう子供も多い。「手羽先」がお勧めである、最近名古屋の名物として上京し食材に並ぶことが多くなったが、腿肉の先の部分に旨味が凝縮している、唐揚げや煮込みにして、うまく2本の骨を分離して食べる。その先部分「手羽先先」はもっと大変、先端の細かい骨も選別しなければならなくなる、全て取りきる事は不可能でどこで妥協するか、手先、舌、歯の運動成果を確認して終了する。日本では殆ど食べられることはないが、香港や中国、東南アジア他の国々では、足の先も食べる「もみじ」と呼ばれる部分で黄色い鱗状の模様が付いていて、その薄皮部分を引きはがすように食べる、とても安価なメニューとなっていて庶民のビールの肴になっている、日本での膨大な量の「鶏足」はどこに行っているのだろうか?(以下次号)

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食べること「スローフード」(1)

2011年 8月 8日 月曜日
BLOGカテゴリー: 食べること

食べ物「スローフード」(1)                                     「スローフード」の語源は当然「ファーストフード」への対抗として出てきた言葉であり、発祥は80年代半ばイタリア、ローマのスペイン広場に「マック」が開業したことで、危機感が生まれ、ピエモンテ州「ブラ」の町で「スローフード」運動が始まったとされている。96年には「守る」「教える」「支える」として伝統的な食材・酒などを守り、子供たち等に味の教育を進め、小さな食物生産者を支えることを提唱している。そして現在世界各地でそれぞれの主張を持ちながら活動が続けられている。一方「ファースト」の意味は当然早く食べることを前提としてはいるが、大部分がオーダー後いかに早くその料理を「差し出す」ことが出来るかの「早く」のことで、早く「食べる」ことより強いだろう。今回の話題は早く「差し出す」ことの逆ではなく、早く食べることが出来ない食品の勧めである。昨今の食品は子供にもお年寄りにも食べやすく懇切丁寧に作製されており、快適に食事をスムーズに取ることが出来る、栄養バランスも加味されており食品としては完ぺきの形をしている。それは学校給食にも介護施設の食事にも反映され、栄養を吸収するという食べることの最低限の要求は満たしている。しかしそれは養鶏場の餌、動物園の飼育同様、本来の生物の持っている本能からは離れており、食べる行為は生物にとって一番重要であり、人間にとっても最重要行為であり、人類発生以来1日の多くの時間をそのことに費やしてきた。しかしこの何万年かの間に人間の咀嚼能力はどの位退化してきたのであろうか、歯によって生肉を引き千切れる人は数少なくなっているだろう。何事も必要が能力を高めるわけで、逆に不必要となれば退化してゆくのが道理、この50年の食料に関する生産、供給、加工、調理の発展は人類生存を大いに助けたが、一方で、自然界の中で単独で生きて行く能力を衰退させてしまった。様々なレトルト、冷凍、インスタント食品が巷にあふれ、栄養的にはともかく飢える状況ではない、味や食感、作製時間、など至れり尽くせりで電子調理器、トースター点火時間など事細かに指定されそれなりの食事が簡単に出来る、また都合のよいことに全てが食べつくせる食材で出来ていて、パッケージ以外に不要物は生まれない。ここで問題なのは食べる事が出来る食物を廃棄することだが、以前にそのことには触れた。(映画「ありあまるごちそう」)一方この50年豊かさとスライドして食に関する追及は絶え間なく、街々のレストランは日に日に美味しくなりその発展は眼を見張るばかりの状況だし、その延長の家庭料理も各家庭において日々の研究を重ね、プロ顔負けのカレーを食す家庭も少なくない。そんな状況の中で如何にゆっくり、丁寧に食べるかの勧めである。(以下次号)

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映画「無言館」

2011年 6月 27日 月曜日
BLOGカテゴリー: 映画

映画「無言館 戦没画学生慰霊美術館」2011年日本 86分 ドキュメンタリー           監督・脚本 宮本辰夫 出演 窪島誠一郎 天満敦子 菅原文太               主題歌 佐藤真子 朗読 岩崎加根子 ナレーション 若井なおみ

長野県上田塩田平の南、独鈷山麓の名刹前山寺の東の一角に「無言館」が平成9年(1997)夭逝画家村山槐多を中心とした「信濃デッサン館」の分館として開館した。    館長窪島氏自身出征の経験を持ち、画家でやはり出征し多くの仲間を失った野見山曉治氏と多くの画学生が志半ばで戦地に追いやられ戦死していった事実を知り、戦没画学生の遺品を集める、芋吊り式に多くの作品が集まり現在の収集となった。

映画は東京芸術大学学園祭のシーンから始まる、若者が山車を担いで練り歩き大声で気合いをかける、画学生の芸術的センスを感じさせるその法被であり山車である。そして「無言館」の説明が始まる。以前私は長野への旅行に際し、入館したことがある、その主旨を殆ど知らずに鑑賞したのだが、最初の印象が親近感であった、それぞれの持つ絵の力強さが伝わってきて思わず絵に引き込まれてしまった。絵に関して全く門外漢の者であるが、稚拙な中にも力強さ、決して大きなことを求めないひた向きさ、しかし、絵に関する基礎的なテクニックはしっかり感ぜられる、印象であった。昨近の「日展」入選作品でもそのキャンバスの大きさには圧倒されるが、何も伝わって来ないことが多い、登竜門とはいえ目的意識の低さや、絵に対する迷いも感じられ現代絵画の難しさもそこに見えるのだが、時間がない、明日がない、切羽詰まった状況で人生の伴侶、それは恋人でもあり、母でもあり、家族でもあるが、絵に対しても同様であり、凝縮された熱情が絵具の塊の中に見えてくる様は鑑賞する者を圧倒する。そこには画業半ばの秀作も多く、完成度から言えば達していない作品もあるがその気持ちは伝わってくる。

その後に続く映像で窪島館長の真骨頂が描き出される、戦没画学生の鎮魂には終わらず、現代にそれをどう取り込むかの活動を追っている、多くの若者にこれらの絵を通して平和の希求、人間の素晴らしさなど知ってもらうため様々な空間への展示を積極的に進め、それは広島の旧銀行の地下金庫室であったり、京都立命館の展示室の一角であったりする。年老いても画業だけを続ける画家はその平均寿命の高さから多いが、絵を通じて自分自身の生き様を伝える芸術家は少ない。一方では小学生、中学生に美術館に来てもらい、形骸化しがちの戦争体験を孫世代程違う若者にまで熱心に説明し、当時の模様を語り、若者の感じ方を興味深く見つめている。「忘れない」ための取り組みとしての毎年8月の「千本の絵筆供養」のユニークさも太変なアイデアであり非凡さを感じさせる。この美術館に多くの若者が訪れることで、絵の持つ普遍性や平和の大切さを未来永劫伝えていただきたい。

一方当然居たであろう音大生の戦没者の場合どのような取り組みが可能なのだろうか、空気に溶け込んでしまう音をどのように歴史の中に存在させたらよいのだろうか?

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落語「桂 歌丸」

2011年 6月 17日 金曜日
BLOGカテゴリー: 落語

落語 桂 歌丸 「井戸の茶碗」                                            2011年5月28日(土)1時半 神奈川県民ホール                        他出演 柳亭小痴楽「芋俵」林家たい平「お化け長屋」     

 まず驚いたのは会場の大きさと客の多さであった、神奈川県民ホール2500席入る、前夜来の雨模様にも拘わらず、90%以上のほぼ満席状態、歌丸が地元真金町出身の生粋の「浜っ子」で地元への思い入れも大きく、ファンが多いとはいえ、落語でこの人数を集めたのには驚いた。過去に「小朝」が武道館を満席にして1万人集めたことがあったが、当時の小朝は時代の寵児であり、メデイアに引っ張りだこであったし、落語家というよりタレントであり、客の方も落語の生を見たことのない、聞いたこともないギャルが大挙して押しかけたわけで、出し物も景山民夫演出の芝居も上演されていた。今回は違う、冒頭に「たい平」相手に対談が30分程あったが他は3人による落語だけの上演であった。客も8割方年金受領者格好で落語を聞きにきている人達ばかりであった。寄席や独演会などで育った者にとっては隔世の感がした。たい平の「お化け長屋」テンポよく面白かった、二人目の入居希望者のやりとりも一人目同様はしょらずに応対していたのに新鮮味あった、おまけの「花火」も初めて見たが、人気の理由がわかった。歌丸の「井戸の茶碗」ファンからのリクエストらしいがまくらが面白かった、大震災を話題にするのは難しい所だが初っ端に「私も被災者の一人で」と入ることで客をぐっと引きつける「石巻にいたのか?」「親戚が死んだのか?」と観客の脳裏をかすめるイメージを壊すことなく、自分が受けた経験を披露する、「調度、歯医者で入れ歯を入れていたんですよ」ここでぐっと沸く。本題は卒のない進め方で、浪人千代田卜斎と細川家藩士高木佐久左衛門、との中を持つ「くずや」清兵衛の仲立ちのやりとりが面白く続くが、何しろ大きい、2階席では話に集中出来ない、盛り上がりの少ない話であり、引き付けるクライマックスがない、「井戸茶碗」を見て、殿のご用達の骨董屋の眼がキラリと光る部分がてっぺんであろうか?善人ばかり登場し清々しくさせる話であり、嫌味もなく快いのであるが、200人位の場で聞けたらと感じた。落語の明治以降発達した重要な部分として「教育」がある、学校に行けない子供たちに、その後生きるための道徳のような箇所が必ず入っていた、悪いことをすれば自身にとって良くないことが、善事をすれば将来それが報われる、この話も「争いごと」は非経済的でそれぞれが欲にまみれることがないと皆幸せになれるとしている。素読を瘡毒、売卜を梅毒と間違えさせて、当時の遊びへの警告も含ませている。ところが最近の落語を聞いて感じることだが、その部分が全く抜け落ちてしまって、弱者を笑ったり、対応の鈍さ面白がったり、古典でもその部分をカットしていたりする、笑い方が変わってしまった、そんな笑いだけが突走ってしまったら、この「ブーム」も長続きしないだろう。

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映画「リリア-4- ever」

2011年 5月 9日 月曜日
BLOGカテゴリー: 映画

映画「リリア4-ever」02スウェーデン 105分 ロシア語(英語、スウェーデン語)
監督 ルーカス・ムーデイソン
出演 オクサナ・アキンシア、アルチオン・ボグチャノスキー、エリーナ・ベニンソン

日本では未公開であり、北欧映画祭にて上映された。DVD化もされておらず、運が良ければ、YU –TUBUで英語字幕で鑑賞出来るかもしれない。監督ムーデイソンは過去作品「ショー・ミー・ラブ」「エヴァとステファンと素敵な家族」で脚光を浴び今回の作品となった。スウエーデン映画といえばベルイマンが有名でその記憶しかないが、監督は孫世代にあたり月日の速さに驚かされる。
 ケン・ローチは「Sweet Sixteen」(英02)でイギリスの疲弊した街で十代の若者の行き場のない叫びを悪の世界に身を置くことで解消しようとし、結果は自分を「捨てる」ことであった。しかしそこには悪に引き込む頼れるアニキもいたし、仲間もいた。チャン・ツオーチは 「美麗時光」台湾01では主人公の危うい青春時代が黒社会に繋がり泥沼にのめり込んでゆく、そこには否定的だが家族も友人も居た。最近の韓国映画「息もできない」では家族からも仲間からも離れ行き場のなくなった若い男女が束の間ではあるが同じ時を共有出来た。
 「リリア」はその全てから見放された少女の話である。舞台はロシアの大きな国営工場が閉鎖になった一地方の町である。体制の崩壊により街の一角は世界から見放されたような現状で明日の食糧にも事欠く中、大人も子供も必死に今日を生きている。冒頭まず母親に捨てられる、父親は生まれたときには既に出奔しており顔も知らない、母親と愛人は米国行きを計画し娘も一緒の話にウキウキしていたがその場になって二人だけで行ってしまう。頼りな筈の叔母は劣悪な自分の住居と無理矢理交換させ、廃墟のような部屋に住むことになる、学校は双方が歩み寄る空間とは既になっていなく、親友達にも裏切られ、誤解から段々離れていってしまい逆に迫害に遭う。そんな中唯一の心の拠り所が近くの同じような環境の年下の男の子のヴォロージャ、彼の淡い恋心とは無縁に母心のような接し方で弟のように庇い、養い、寂しさを解消している。そして当然の帰結のように体を売ることで生活を支えるようになり、そこに親切な男が現れる、言葉巧みに西欧社会の素晴らしさを伝える、そしてリリアは眼を輝かせて未来の夢を思い描く、一貫してリリアはどんな境遇に成っても上昇志向を持ち続け生きて行き、挫けることを知らない、それは最後の最後まで変わらない、ヴォロ-ジャと幸せな空間を共有出来るのだがあまりに悲しい、天空空高く「とんび」だろうか、二人を旋回しながら見下ろしている。そして二人がいつも過ごした木製ベンチには「Lilja-4- ever」と刻まれていた。全編「t.A.T.u.」やラムシュタインの曲が流れ力強い映像を作っている。

   

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映画「ありあまるごちそう」

2011年 4月 27日 水曜日
BLOGカテゴリー: 映画

映画「ありあまるごちそう」We Feed The World 05オーストリア 96分
   エルヴィン・ヴァーゲン・オファー監督・脚本・撮影
丸い形や長細いのや茶色や黒や、様々な種類のパンがベルトコンベアーで運ばれてくる、半端な量ではなく、やがてパンは積み上げられた一角に落とされる、シャベルカーがそれをダンプに積み込む。多くの日本人観光客が訪れるウイーンでの光景であり、テロップが流れ「この首都では毎年2千トンのパンが捨てられる、それはオーストリア第2の都市グラーツの年間消費量に匹敵する」「この地球上で毎日飢えた子どもたちが10万人死んでゆき、8億人が飢えに瀕し、地球全体の食糧生産量は120億人を養うことが出来る」スト-ブに「コーン」がくべられ赤々と燃え、食物燃料がエネルギーとして重要な立場となったことを象徴し、タイトルが現れる。6年前の製作であるが現状は地球の将来にとって好転しているとは思えず、この映像に出てくる現象は様々な場面で一層顕著となっており、「余る」状況は質的にはともかく量的には増えており、一方で「飢える」その政治状況は益々泥沼状態に陥っている。全編食物に関するショッキンングな映像が続く、スペインのどこだろうか、空撮のビニールハウスが続く、延々と丘陵地に白い畑が続きその内部にカメラが移動し、トマト栽培とわかる、ヨ-ロッパ向けで大規模生産により従来のアフリカ産より低価格にしたことで西アフリカのトマトは瀕死の状態となり、従業員はスペインへの出稼ぎとなった。大型トラックがEU各地へ新鮮なトマトを運んでゆく。話題は大豆へ、ブラジルの奥地へ向かう、森林を開墾し大豆が栽培される、森林伐採はCO2増加原因として大変問題となっており、「豆腐」大好き国として心痛むが、その殆どは、欧米へ家畜飼料として輸出されている。オーストリアの養鶏工場へと場面は移る。「チキン」が食卓に上るまでの工程の映像である。孵化可能な有精卵を産む親鳥を大量に提供出来る工場は世界に少なく、オス1羽メス10羽の割合で卵を孵化しその「ひよこ」が養鶏業者に売られ、飼育される、その飼料がブラジル産の大豆である、卵専用のブロイラーがカプセルホテルなら「大広間」の雑魚寝だろうか、薄暗い中動きの自由はあるが餌と水の往復である、生育すると掃除機で吸引されるようにラインに乗せられ一気に「製品」となってゆく、足を固定され、宙ずりのまま電気ショック、頸部を切断され血抜き、強力吸引装置で羽がむしられ丸裸に、優秀な最先端解体装置が細部まで入り込み、内蔵削除、部位毎の切断となり、部位は纏められ心臓は日本のヤキトリか、足は香港の屋台なのだろうか。普通の製造工場では工程を経るに従い製品の状態が明らかになるが、全く逆で見慣れた鶏が見る見る変貌して、クリスマスのローストチキンとなってパックされる。オーストリアが食糧生産経営の中心主要国であるらしく、世界一の食品会社「ネスレ」のCEOはオーストリア人である。そのインタビューで「従業員27万5千人その関連会社や家族を含めると450万人の生活がかかっており、あらゆる食料を日々増産してゆかなければならない」映像には出てこないが、人ごとではない、チラシには日本の食糧廃棄量、業社と家庭合わせて年間2200万トン(2005年)途上国の1億人分の年間食糧である。

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