芭蕉堂店主ブログ 雖小居日録

食べること「牛玉ステーキ丼」

2011年 4月 15日 金曜日
BLOGカテゴリー: 食べること


食べること
「牛玉ステーキ丼」
「B級グルメ」ブームという、「B級」の先鞭をつけたのは1985「東京グルメ通信B級グルメの逆襲」(主婦と生活社)の刊行であったらしい。(ワイキペデイアより)私が最初に目にしたのは文春文庫ビジュアル版の「東京B級グルメスーパーガイド」1986を読んでからだろうか、好評だったらしく、その後そのシリーズは勝手に間口を広げ、韓国、台湾まで飛び16,7冊の発行となっている。当時仏料理はどこそこがうまい(荻昌弘)、普茶料理はあそこ(梶井基次郎)という具合に、縁のない人間の多い店紹介が主流だった。そこで登場したのが「五大丼(天、うな、カツ、親子、牛、)三大ライス(オム、カレー、ハヤシ)」の紹介でカツ丼はどこがうまい、カレーは、○×と店によって普段食べている味に違いがあることに気付きだした。何も地方の隠れた一品を探し出したのではなく、周囲の食べ物に興味を持ちだしたのである、一流とは言えず二流よりB級の方がダメージ少ないだろう位の発想と思う。それが今やどう変転したのか地方都市活性化の花形、観光客誘致の先兵として登場し全国大会も開催されグランプリは大々的に報道され当地では旅館の料理に加えられるという、その扱いはとても「B級」とは言えない発展ぶりである。長い間地元の人達が気安く愛していた食べ物が、突然全国展開になっても碌なことはなく、近所のラーメン屋に人が並び出したように、地元からは遠ざかり、便乗した多くがその神輿に乗ることでの質の低下は避けられない。その食べ物にとって、束の間の栄光を浴びるだろうが少数精鋭だから得る光の輝き、創作製品とは違う跋扈品が認知される事態ともなれば、悲劇であろう。
 ここで紹介の「牛玉ステーキ丼」は決してB級グルメではない、北海道十勝平野清水町で、昨年7月より提供している地産地消食べ物である。清水町はじゃがいもを中心とした農業も発展しているが人口1万人の中に牛は4万頭(肉牛道内2位)、鶏40万羽(道内3位)飼育している牧畜生産地であり、その特産を惜しみなく使った丼である。定義は地元の十勝若牛と鶏卵を使用し味噌味とし、従来の十勝名物の「豚丼」醤油味と競う方法を取っている。「ルール」が色々細かく規定され、ロース部分、サイコロ状、ふわふわ卵、道産米、そして器の形状まで提示している。料金は千円以内(よってどこも980-)である。現在9店舗で提供中だが、その中にはゴルフ場の食堂メニューにもありプレーとは無縁の方々も食べに来る。蕎麦専門店のサイドメニューにも入り(写真参照)蕎麦のサービスが加わったり、前記の条件の中でそれぞれの特徴を出してアピールしている。目立った観光地もなく中々訪れる機会は少ないが是非とも寄っていただきたい。ゆめゆめ、選手権など応募せず、首都圏某デパートに登場などないことを祈る。あくまでも地産地消で。

http://tokachi432.com/

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映画「祝(ほうり)の島」「ミツバチの羽音と地球の回転」

2011年 4月 4日 月曜日
BLOGカテゴリー: 映画

映画「祝(ほうり)の島」10年日本 105分 纐纈あや監督
   「ミツバチの羽音と地球の回転」10年 135分 鎌仲ひとみ監督
東日本大震災に被災された皆様心よりお見舞い申し上げます。またお亡くなりになられた方々の御冥福お祈りいたします。一日も早い復旧と平穏の回復お祈り申し上げます。
両作品とも山口県瀬戸内海に浮かぶ「祝島」を舞台にしたドキュメンタリーである、この内海の海上交通の発展によってもたらされた経済上、文化上の日本の歴史に果たした役割は大きく、点在する島々の有形無形の遺産は貴重な形で受け継がれている。祝島はその内海の周防灘からの入口に浮かび、千年も前から急峻な山を開拓し続け、恵まれた漁業とともに、島の発展を支え今日の姿となった。山には手間暇かけた琵琶がなり、その不揃い品を食べて育った豚が元気よく飛びまわり、狭い田んぼでは無農薬天日干しの米が作られる、磯に出れば何百年続いた「ひじき」漁が資源を絶やさない伝統を守りながら続けられ、沖に出れば一本釣りで高級魚の鯛が釣れる。都会から見れば理想郷のようなこの島でも若者は都市へ憧れ離島してゆく、しかし4年に一度、島出身者のアイデンテイテイを確認するかのように、各地に散らばった多くの島民が「神舞」(かんまい)の祭には戻って来る、豊漁、豊作を祈り親類縁者の集いは島全体を活気に充ち溢れさせ、往時の栄華を感じさせる。カメラはこの祭りを中心にして、島に残った若者と老人たちの日常を追い続ける。
 その祝島に「原発建設」の声が立ち上がったのが1982年の29年前、島の眼前にある上関町田ノ浦がその候補地、前面の海は島にとっては主要な漁業地である。以来人口500人の町が建設反対賛成の攻防を続けてきた。当然、対岸の田ノ浦も同町であることや、安定雇用、補償金、島生活の不便さなどから賛成派も多く、他の7漁協は賛成し、唯一この島の漁協が反対し補償金を返金している。町議会で建設賛成案が可決されても反対運動は行われ、島では28年間毎週、反対派がデモ行進を続けている、それは示威行動というより早朝ウォーキングに近い、オバちゃんたちがその鉢巻の物々しさとは裏腹にペチャペチャ喋りながら島内を歩く、それは皆に訴えるというより絆を確かめる、形骸化を防ぐ行動であり、28年間の結束を支えてきた。中国電力は議会の承認後工事に着手するがこれに対し漁民たちは実力で阻止行動を起こし、陸上ではおばチャンたちが座り込みを、海上では漁船を連ねて工事作業を一時は中断させるが、強行されてしまう。「皆さん第一次産業のみで生きてゆけますか?」「原発を作ることによって確実な雇用が生まれます」中国電力職員の海上での説得の言葉である。この攻防を追い続けた両作品だが、その対象とする人物や時間的ずれはあるが同じ視点で見ており、双方の映像にそれぞれが写ってしまうのではと心配させる程似た映像であった。「祝の島」は昨年「ミツバチ」は今年公開された。
 「ミツバチ」は以上の映像に加え原発の脅威を強く訴えている。電力事情取材のためスウェーデンを訪れ、「日本ではまだ原発建設の計画があるのか」と驚かれ、地域自立型のエネルギー供給事情を見学し、ほぼ独占状態の日本の電力事情を見直す必要を訴えている。 今回の震災発生直後山口県知事は中国電力に対し「上関原発」の見直しを要請した、29年に及ぶ反対運動には全く姿勢を崩さなかった当局の今回の即断である、結論は出ていないが気が付くには余りにも大きい代償である。「ミツバチ」は現時点で日本全国で公開の予定であったが、「都合により当分上映中止します」の貼り紙があり、上映されていない。

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印章「中国オークション」

2011年 3月 4日 金曜日
BLOGカテゴリー: はんこ

はんこ「中国骨董オークション」
2月23日東京ドームホテルで「東京中央オークション」が開催された。今回2回目の開催となる、事前に豪華なカタログが配布されており、出品品目約750点をチェック出来る。前日の下見会は「天空の間」に所狭しとその出品の中国の書画、骨董が展示され、小さな品はガラスケースに収納され係員に要求すれば手にとって鑑定でき、掛け軸などの書画は全て真近に筆圧まで確認出来る。このオークション参加のために中国から約四百人が大挙来日し、ライトとルーペ片手に熱心に吟味し、会場は熱気にあふれた。

http://www.chuo-auction.co.jp/jp/

昨今、チャイナマネーの力は新聞紙上を賑わせているが、中国政府は不動産市場の投機に対し規制を掛け、その効果が徐々ではあるが効き始めている、だがその余剰資金は健在で、行き場のなくなった「元」は不安定な「元」を嫌って金をはじめ様々なモノに向かっている。日本のバブルではその資金は殆ど中国美術へは向かず、欧米の絵画を買い漁り顰蹙を買ったが、中国では西欧美術への関心の情報は不明だが、流れてくるのはワインブーム位で、もっぱら自国の美術品に向かっているようだ。しかし清末以降中華民国建国後百年近く、多くの文化遺産はその侵略、政変、戦乱、天災、内乱の中で雲散霧消していった。大国ゆえ分母の大きさは膨大で、残っているものも多いが、多くはこの数年間の骨董ブームで行き場所が確定しており、後は贋作の横行となってしまっている。台湾故宮博物館の所蔵に象徴されるように海外に散逸している美術品も限りなく、日本においても収奪したとは信じたくないが、日本人の中国文化に対する畏敬の念は現在の比ではなく、この百年あるいはそれ以前より多くの書画骨董が日本に流れてきた、しかし戦後の価値観は中国文化を対象としていず、戦災での消失を経ても、多くが埋もれているのが実情である。10年程前上海の骨董街の老舗を訪れると、店主から「日本にはまだ沢山残っているでしょう、買いますよ」との話、その時中国骨董に関しては、日本は売り手市場になったと実感した。現在大規模な形で実現し始めている。
オークション当日は大変な賑わいと熱気に包まれた。カタログには初値価格と予想落札範囲価格が表記されており、その初値からオークションが始まる、初値のまま買い手なくパス(出品者に戻される)されることもあるが殆どが予想を遥かに超える落札価格となる。会場は日本とは感じられず、ここは北京か、上海か、98%は中国人で占められており、担当者も日本語を一応使うが、中国語での呼びかけとなる、落札者は三桁の登録番号札を持っていて値を上げる毎に頭上にかざし、決して金持ちには見えないラフな姿の人達がどんどんセリ落としてゆく、中国内地からか電話での参加も盛んで、価格は想像を超える速度で上昇し、見学者か出品者である日本人は、只唖然、唖然でありどこにそんなお金があるのか驚くばかりである。例をあげれば、石涛(清初1630-1724画家)の「松渓幽居圖」の掛け軸が何と8960万円、会場がどよめき、拍手が起こった。王鐸(明末1592-1652書家)の書に3300百万円、「田黄」(写真参照、落札品とは別)と呼ばれる希少印材で大きさ100グラムから130グラムの品に2000万円から3300万円の値がついた。午前十時より始まったオークションは全く休憩なしに夜遅くまで続けられた。
夏頃に第3回目が予定されており規模も大きくなるという、しかし世界情勢や中国国内の動向に敏感に反応し波乱も予想され、参加者の規模とか落札価格は全く予想がつかないらしい。
「おじいさんがそう言えば、押し入れの奥に何だか古いものを大事にしていたな」是非もう一度チェックしてみて下さい。大変な「お宝」になるかもしれません。

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芭蕉ゆかりの地訪問

2011年 1月 25日 火曜日
BLOGカテゴリー: 松尾芭蕉

昨年末、琵琶湖近辺の芭蕉ゆかりの地を訪問した。

琵琶湖線「膳所駅」より徒歩5分程にある松尾芭蕉の墓がある義仲寺(写真参照)へ行った。頼朝、義経に討たれた木曽義仲の寺だがその後の洪水、火災、戦災などで疲弊し現在の佇まいとなった。寺内には義仲の墓、芭蕉翁の墓(写真参照)の他、芭蕉やその弟子の句碑が多く並んでおり特に直筆とされる「行春をおうみの人とおしみける」は有名である。(司馬遼太郎「街道に行く24近江の人」に詳しい)芭蕉は1694年(元禄7年)大阪で亡くなったが、本人の遺言で義仲寺へ葬られた。生前より境内一角にある「無名庵」には晩年立ち寄ることが多く、俳句や文章を残している。続いて京福電車で石山寺へ、ここも芭蕉ゆかりの地で塚もあり、国宝の本堂と多宝塔近くに茶室「芭蕉庵」(写真参照)があり非公開だが茶会などに利用されている。

「曙はまだむらさきにほととぎす」「石山の石にたばしる霰かな」などの句を残している。

石山寺から西方向にある「幻住庵」へ、国分山東斜面麓の石段登った所に近津尾神社と並んで「幻住庵」がある石碑(写真参照)のみ残っていた場所に20年程前、山門と庵が復元された。芭蕉はこの庵に1690年4月から4カ月程滞在し俳諧文の傑作「幻住庵記」(書き出しは「石山の奥、岩間のうしろに山あり、国分山・・・」)表している。この庵は門人であった菅沼曲翠から提供されたもので曲翠は芭蕉の死後、膳所藩悪家老を刺殺し切腹している。句碑には「先ず頼む椎の木もあり夏木立」とある、近くには文中にある「とくとくの清水」も出ていて往時から利用し続けていると想像出来る。「奥の細道」をはじめ芭蕉は常に旅の途上にあって漂々の俳人のイメージが強いが晩年の数年間は隠遁、安住の地として大津を愛し生涯を閉じている。

義仲寺


芭蕉翁の墓


芭蕉庵


幻住庵

芭蕉関連サイト

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