「中野駅周辺のこと(1)」はじめに
2019年 5月 31日 金曜日
BLOGカテゴリー: 歴史
JR中野駅北口の再開発は大学3校の誘致を中心として行われ、上場企業の本社もすっかり地元に溶け込み、「中野四季の都市(まち)」として機能し始めた。以降は南口の再開発が二丁目、三丁目を中心として計画され、駅西側の南北通路の敷設も織り込まれており、今後どのような街になってゆくのか注目するところである。南口「レンガ坂」当店の地に生まれて六十数年、中野駅周辺の多くの商店の隆盛と衰退を眼前に見ながら生活して来た、あまりにも変わってきた「この町」のことを、多くの商店
の想い出を中心に書き留めておくこととする。・・・・・と、
このように書き始めてから何年経っただろうか、その後中野駅周辺の計画は中野区長の交替或いは行政、国、JRの動向により変遷し続けており、我々一般住人には最終的な街の様子は浮かんで来ないし、その時期も一向に見えて来ない、この中野駅周辺の歴史を知ることが、この地域の発展の一助になればと当店周辺の極く狭小な一角の変遷を辿ってみようと思う。2019年4月の日付で(仮称)中野駅西口開発建築計画のお知らせと称し、東日本旅客鉄道株式会社名で地上5階の駅ビル建設の概要案内が配布されたが、着工2020年3月完了2028年3月とあり、再開発は遅々として進みそうにはない。
中野駅周辺の歴史をどこまで遡れるか難しいし、詳しい調査が必要になる、簡単に記せば、遠い昔は武蔵野台地の丘陵地帯であり、周辺は武蔵の国として江戸時代は農家が点在する長閑な田園ではなかったか、雑木林が続く中に農家も散在していたかもしれないが、人も農地も少ない自然のままの一帯であったであろう。そのような地域が歴史的に明らかになってゆくのは、五代将軍徳川綱吉が「生類憐みの令」によって殺生を禁じたため、幕府の野犬保護施設を設けてからである、犬を囲って飼育していたことから「お囲い御用屋敷」とも言われ、旧地名「囲町」はこれに由来する。綱吉死去後その「令」はすぐに廃止となり以降、その動物達の運命や施設の変遷は不明である。当時、青梅街道沿いには300年の歴史を誇る古くからの商業地が開け、妙法寺も古くから参拝者も多くその参道も周囲に多く広がっている、桃園通りは中野駅開設以前のその参道のひとつで、くねくねとした道を辿ると妙法寺に行きつく、新井薬師にも参拝客は多かったであろう、落合火葬場も近く、当時の人たちが訪れる所はそのような場所であり、行楽や旅の対象は多くは信仰関連施設であった。
中野駅開設から始めよう、明治22年4月今の中央線は甲武鉄道として発足した、本年(平成31年2019年)JR中野駅は創業130周年を迎えイベントの予定もあるようだ。東海道線が神戸まで開通したのがその2カ月前であり、鉄道敷設としては早くそれも私鉄として建設され、後に国に払い下げられた、内藤新宿を起点として馬車鉄道も運営されたが、輸送量に限界があり、甲州街道沿いに西の八王子へと計画したが、沿道住民の猛反対に会い、その理由が、既存の輸送手段業者の利用減少への危機感や宿屋の経済的理由、煤煙による作物被害、沿線火事の不安などだったそうだ、仕方なく新宿から東中野付近までは北側を抜け、後は定規で一直線に立川まで線を引いた、殆どが田畑や雑木林で用地買収も簡単で、建設はスムーズに進んだ。最初作られた駅は内藤新宿、中野、境、国分寺、立川の5駅、機関車に引かれた車両は5,6両内藤新宿を出発し、中野までは11分、境まで23分立川へは1時間、午前午後それぞれ2往復のダイヤであった、利用は殆ど観光客、妙法寺や薬師の参拝客は多くなったという、当時の広告コピーが残っている「日蓮宗の古刹、堀の内妙法寺、新井薬師梅照院に、東京中央居住の人にて参詣するものは、当駅にて下らばもっと便なるべし」料金は新宿・立川間、上等66銭中等45銭下等22銭、新宿・中野下等3銭だった、当時下宿屋の相場が月3円50銭の時代であった。その後駅も次々に追加建設され、鉄道のもたらす経済発展は周囲を驚かした、甲州街道沿いの既存業者は大正初期京王線を敷設し挽回を計るが遅きに逸し現在に至っている。
(「東京沿線物語」金子治司より「商店街からたどる“なかの”の足跡」)
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