昨年末、琵琶湖近辺の芭蕉ゆかりの地を訪問した。
琵琶湖線「膳所駅」より徒歩5分程にある松尾芭蕉の墓がある義仲寺(写真参照)へ行った。頼朝、義経に討たれた木曽義仲の寺だがその後の洪水、火災、戦災などで疲弊し現在の佇まいとなった。寺内には義仲の墓、芭蕉翁の墓(写真参照)の他、芭蕉やその弟子の句碑が多く並んでおり特に直筆とされる「行春をおうみの人とおしみける」は有名である。(司馬遼太郎「街道に行く24近江の人」に詳しい)芭蕉は1694年(元禄7年)大阪で亡くなったが、本人の遺言で義仲寺へ葬られた。生前より境内一角にある「無名庵」には晩年立ち寄ることが多く、俳句や文章を残している。続いて京福電車で石山寺へ、ここも芭蕉ゆかりの地で塚もあり、国宝の本堂と多宝塔近くに茶室「芭蕉庵」(写真参照)があり非公開だが茶会などに利用されている。
「曙はまだむらさきにほととぎす」「石山の石にたばしる霰かな」などの句を残している。
石山寺から西方向にある「幻住庵」へ、国分山東斜面麓の石段登った所に近津尾神社と並んで「幻住庵」がある石碑(写真参照)のみ残っていた場所に20年程前、山門と庵が復元された。芭蕉はこの庵に1690年4月から4カ月程滞在し俳諧文の傑作「幻住庵記」(書き出しは「石山の奥、岩間のうしろに山あり、国分山・・・」)表している。この庵は門人であった菅沼曲翠から提供されたもので曲翠は芭蕉の死後、膳所藩悪家老を刺殺し切腹している。句碑には「先ず頼む椎の木もあり夏木立」とある、近くには文中にある「とくとくの清水」も出ていて往時から利用し続けていると想像出来る。「奥の細道」をはじめ芭蕉は常に旅の途上にあって漂々の俳人のイメージが強いが晩年の数年間は隠遁、安住の地として大津を愛し生涯を閉じている。
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